悲惨「北送60年」救出・支援急務…朝総連の暴力・妨害乗り越え「守る会」は前進中

日本中の大学で多文化共生を無批判に肯定的に描く講座が開講され、無知な若者が日々洗脳されている。

現行の日本の法制度の下で、この異常な民族集団に特別永住ビザが与えられている現実がある。外国人が一般的に発給されるビザとは別扱いの待遇を与えられ、生粋の日本人の社会、学校、職場に、多くの場合本性を隠して混じり込んでいる。

下記記事はたまたま北系在日の話だが、今の韓国政府と韓国社会の言動・反応を見れば、同じ思考様式を持つ同じ民族であって、南北に差はないことがよくわかる。この人たちに私たちと対等以上の権利を与え、私たちと同じ空間に置いていたら大変なことになると結論付けるのが自然であろう。



悲惨「北送60年」救出・支援急務…朝総連の暴力・妨害乗り越え「守る会」は前進中
2019.08.15
民団新聞
https://mindan.org/news/mindan_news_view.php?cate=1&number=25535

[ 民団の「脱北者支援センター」主催で開かれた関東地区の脱北者交流会(2003年12月7日 ]

北送60年を思いつつ
北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会名誉代表 山田文明

 「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会」(以下守る会)の誕生過程は、私たち中心会員にもあまり知られていませんでした。今年2月に発行した私たちの理論誌『光射せ!』第16号に創設メンバーのひとり、小川晴久名誉代表にお書きいただいた貴重な経過記述「守る会結成の経緯と初期の活動で忘れ難いこと」で、はじめて正確に知った次第です。小川名誉代表の承諾を得て、その論述に依拠し、借用して説明します。以下、敬称は「さん」で統一します。

「守る会」誕生へ

 守る会が誕生したのは1994年2月20日のことですが、前年にあった二つの集会が大きな役割を果たしました。

 一つは93年8月22日、東京中野駅前の焼肉店「明月苑」での証言会でした。そこには10人ほどの在日と4、5人の日本人が集まっていました。そこでは、明月苑のアジュモニ(お母さん)と京都の朴春仙さんが北朝鮮に帰国した息子や兄の実情を語り、関西大学教員李英和さんが平壌留学体験を話しました。

 参加者の多数は北朝鮮の山の中に恐ろしい強制収容所があることを初めて知ったのでした。日本人参加者は日頃、朝鮮問題に関心を持っていた小川晴久さんご夫妻、高柳俊男さん、谷川透さんなどでした。

 実は、この証言会を企画した人の名前は、親族が北に帰っているため、今まで伏せてきたのですが、ご本人の了解が得られ、在日作家(近年は映像作家)の朴寿南さんであったということです。

 この日の話は参加者に大きな衝撃を与え、もっと大きな証言集会を持つべきだとなり、11月7日、神田パンセで200が参加する集会につながりました。

 このときの証言者は7人になりました。7人とは、帰国して日本語アナウンサーをしていたお兄さんが政治犯として、80年に家族もろとも収容所に送られ、5年後にその兄が銃殺された朴春仙さん、帰国した弟が強制収容所で殺された金民柱さん、中野のアジュモニの証言の代読、朝総連新潟県本部で帰国者を送り出した張明秀さん、李英和さん、逃亡を図り、銃撃で死亡したと北朝鮮が発表した曺浩平さんの妹の曺幸さん、支援者の愛知県立芸術大学の萩原重夫さんです。

 わずか2カ月位の準備で200人も集まって下さったのには、この年の6月3日に発足した大阪に本部を置くRENK(レンク)の李英和さんたちの貢献が大でした。

 この証言集会の時に朝総連による妨害はあったのですが、彼らは十数人程度で、途中で退場していきました。

 2つの集会を経て、明くる正月には帰国者の問題を担う恒常的な組織を作る準備会が開かれました。その時「会の名前」を相談し、小川さんが「北朝鮮帰国者の生命(いのち)と人権を守る会」を提案しました。北朝鮮当局が人の生命をいとも簡単に殺すので「生命」を守るという語を入れるべきとの考えでした。

 すると、準備会に出席していた朴甲東さん(元南労党幹部)が「その通り」と言って賛成し、名前が決まりました。
 守る会結成の当日は大荒れに荒れました。臨場感あふれる小川さんの文章を引用します。

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 こうして迎えた守る会の結成当日。出席者は約180人。うち朝総連の組織動員(妨害者)が50人。開会冒頭から野次が飛ぶ。壇上の横断幕(北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会結成集会)を指し、「北朝鮮とはどこの国か、正式名称を使え」など、罵声が始まる。

 最初は金英達氏の「帰国事業とは何か」の講演。1時間を予定していたが、妨害野次のため30分で終わらざるを得なかった。次は被害者家族の訴え(朴春仙さん、曺幸さん、金民柱さん)。怒号は続く。

 「殺された弟に関する私の証言を妨害する者は私の弟を殺した共犯者と見なす」という金民柱さんの怒りの意思表明は、妨害者たちの野次・怒号を圧倒した。

 次に会則案の披露である(私が朗読)。朗読を始めたら、前の方を占めていた総連の若者たちが演壇めがけて攻めてきた。私は仲間のスクラムに守られて朗読を続ける。遂に会場側が110番通報する。会則案は辛うじて最後まで朗読できたので、賛否を会場に聞いたところ、百余人の賛同の拍手が得られたため、その場で成立を宣言した。

 次に守る会への参加の呼びかけ(アピール)の朗読に入ったが、業を煮やした妨害者たちは主催者側のガードを突破して朗読中のアピール文を奪い取り、正面の横断幕も破り、机も壊し始めた。会館側の退去の要請もあったので午後3時45分集会の閉会を宣言した。
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 このため、小川さんが用意していた「集会宣言」は朗読されずに終わりました(この「集会宣言」は『光射せ』第16号9頁に掲載)。

 この結成集会の1週間前に、姜哲煥、安赫共著の『北朝鮮脱出』上下2巻が文芸春秋から出版されました。ヨドック15号強制収容所に十年と一年半収容されていた二人の青年の収容所体験記です。守る会はあたかもこの体験記の邦訳出版と共に発足したのです。

 守る会結成のあとに続いたのは、愛知の動きでした。

愛知の取り組み

 94年3月6日、証言集会でも話をされた萩原重夫さん、帰国者家族の安本さんなどが中心になって「帰国者と家族を助ける愛知の会」が発足しました。当初の会場は総連に襲撃され、粉砕されましたが、同日夕刻、別の会場で発足しました。

 4月15日金日成の誕生日には、大阪でRENKの集会が開かれました。東京からは曺幸さんが招かれました。集会は朝総連大阪府本部、同京都府本部が会場を占拠し、会場前の公園での集会も粉砕され、参加者は申請してあった地下鉄の駅までデモ行進しました。

 李英和さんの奥さんのカバンが総連側に略奪され、曺幸さんは総連側のフクロウ部隊に囲まれ、四方八方から押され、右の肋骨2本にヒビが入る圧迫を受けました。機動隊に救出されなかったら、死に至るほどの恐怖を覚えたと曺幸さんは回想しています。

 曺幸さんたちは怒りに震え、告発したので、朝総連大阪府本部と京都府本部に警察の手入れが入りました。朝総連側は今まで一度も手入れを受けていないと豪語していたので、全く備えがなく、襲撃した証拠品が全て押収され、その他にも重要な情報が警察の手に渡ったはずです。
 朝総連側は罰金刑で対応し、これを機に私たちの集会に朝総連の暴力介入はなくなりました。

 その後の守る会の主な取り組みは、姜哲煥さんと安赫さん、そして安明哲さんを招請し、北朝鮮の恐怖社会の実態を語っていただく機会を各地で作ったことでした。

 池田菊敏氏の仲介で邦訳が出たばかりの『北朝鮮脱出』の著者を韓国に訪問することになり、日本から池田さん、曺幸さん、梁泰昊さん、小川さん、萩原遼さんの5人が韓国に渡りました。初めて会う姜、安両氏はとてもやせていました。
 この時の会見が契機となって、翌95年7月7日からの8日間、姜さんと安さんの訪日を実現。東京、大阪、名古屋で証言集会を持ちました。

 安明哲さんの著書『北朝鮮絶望収容所』が97年に翻訳出版されました。会寧第22号管理所(収容所)の警備員をしていた人の体験記です。収容所を警備する側からの実態報告なので、読むのが辛くなるほどの迫力と説得力がありました。

 守る会は安さんを日本に招き、全国5カ所で講演してもらいました。訳者の池田菊敏さんが巻末に、「収容所の中の人を一人でも救いたいと思ったら、守る会に入会すべきである」と檄文をしたためていました。この効果は絶大で、この年に会員は急増しました。

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