あの許永中が憧れた武闘派ヤクザ「殺しの柳川」を知っているか

在日=暴力団=民団=外国情報機関直属のスパイという露骨な証言が出てきました。知ってたけど(笑)。

暴力団が民団幹部を務めているんだったら(これも知ってたけど)、民団も非合法化するのが適当です。韓国政府から活動資金の大半を受け取っており、それを暴力団幹部が采配しているのであれば、取り締まって当然。

「差別に苦しむ在日」という嘘の枕詞も、いい加減止めなさい。在日は、行き場所のない自分達を受け入れてくれた日本に対する感謝と、自らの行動に対する反省を込めて、「在日の暴力に苦しむ日本人」という本を書きなさい。お前たちは、韓国の領土内で親北活動をしていたから粛正され、居場所がなくなったから命からがら日本に密入国した。

日本人に対し暴力をふるう外国人と外国スパイは、多文化共生策およびヘイトスピーチ規制法による保護の対象外である。
日本の各家庭において、よく子供たちに説明しておくように。



あの許永中が憧れた武闘派ヤクザ「殺しの柳川」を知っているか
現代ビジネス
7/11(木) 6:01配信
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190711-00065781-gendaibiz-soci

 人呼んで、殺しの柳川――。大阪の在日社会で身を立てた柳川次郎は、最恐軍団・柳川組の初代組長として、過去、幾度も仁侠映画の題材となるなど、武勇伝が語り継がれている。しかし、堅気となった後、日韓外交を陰で支え、在日社会の地位向上にも奔走したという事実は、ほとんど知られていない。『殺しの柳川 日韓戦後秘史』著者の竹中明洋氏が国家を動かしたヤクザの秘話を明かす。

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あのフィクサーが語った

 7月初め、ソウルの江南で私はその男と会った。いつものように、はにかみながら、握手を求めてくる。近くの食堂で一緒に昼食を食べることになった。

 「柳川先代も喜んでるんちゃうか」

 大阪弁でそう話すのは、かつて財界のフィクサーとも呼ばれた許永中氏だ。大阪の中津に生まれた在日韓国人で、表の政財界と裏社会をつなぐその特異な人脈を武器に、バブル経済の時代に圧倒的な存在感を見せた。

 だが、バブル終焉と軌を一にするかのように、1991年に「戦後最大の経済事件」と言われたイトマン事件で特別背任などにより逮捕され、服役を終えた現在はソウルでビジネスを手がける。

 この日、私が許永中氏と会ったのは、彼が取材に協力してくれた拙著『殺しの柳川 日韓戦後秘史』(小学館)を手渡すためだった。刷り上がったばかりの本を封筒に入れて差し出すと、許永中氏は「昼間やけど一杯ぐらいなら大丈夫やろ」とビールを頼んで出版を祝ってくれた。

 許永中氏に初めて会ったのは、平昌オリンピックの真っ最中だった昨年3月のことだ。日本のマスコミの取材はほとんど受けないはずだったが、それでも応じてくれたのは、柳川次郎を通して大阪の在日の戦後の歩みを描きたいという私の取材趣旨に関心を示したからだろう。

 会うなり許永中氏はこう口にした。

 「あの人はね、私ら大阪の在日にとってエースいうんかな。一緒に北新地で飲んでるいうだけで、えらい誇りに思ったもんですわ」
あの許永中が憧れた武闘派ヤクザ「殺しの柳川」を知っているか

1982年、山本皓一氏撮影
力道山を囲む会に現れた、黒シャツの男

 柳川次郎とは、山口組きっての武闘派・柳川組の初代組長として、「殺しの柳川」の異名で恐れられた人物である。1923年に日本の植民地統治下の釡山で生まれ、本名を梁元錫(ヤン・ウォンソク)という。7歳の時に母や弟とともに海峡を渡り、大阪で在日韓国人として生きた。

 柳川が58年に大阪のキタで結成した柳川組は、構成員の多くが朝鮮半島にルーツを持っていたことで知られる。民族的な紐帯を武器にした圧倒的な戦闘力を持ち、結成後わずか10年足らずで全国に勢力を広げ、1700人もの構成員を抱え込んで五大広域暴力団の一角に指定されるほど爆発的に膨張した。しかし、日本警察を挙げての集中的な取り締まりを受け69年に解散に追い込まれる。

 堅気となってからは、海峡を挟んだ二つの国の橋渡し役たらんとして日韓を行き来することに生涯を費やした。本国との太いパイプを築いた柳川は、韓国の情報機関と深く関わり、80年代の全斗煥(チョン・ドファン)政権時代には政権中枢にまでその影響力が及んだ。

 柳川が亡くなってからすでに30年近い。生前の柳川を知る関係者も少なくなっているなか、ようやく辿りついたのが許永中氏だった。

 許永中氏は47年生まれだから、柳川とは二回りも年齢が違う。初めて柳川を見たのは、まだ小学6年か中学1年の頃だったという。場所は大阪の西天満にあった大阪報知新聞である。

 大阪報知新聞は、柳川組の副組長だったこともある加藤武義が社長をしていた新聞社だ。その日は大阪報知新聞が主催する形で、プロレス興行のために大阪を訪れていた力道山を囲んで食事会が開かれ、朝鮮半島出身の力道山をもてなすため大阪の在日が集まった。

 「民団(在日本大韓民国民団)の北大阪支部長だった父がこの会に呼ばれていたので、私も紛れ込んだのですが、会場の隅で待っていると、黒シャツの大柄な体格の人が現れたんです。ものすごい恐ろしい目つきで、それだけでグッときそうなほどの迫力ですわ。オーラも半端ない。初めて間近に見た伝説上の人物言うんかな。それが柳川さんやったんです」


戦後を生きた「義賊」

 許永中氏が生まれ育った中津は、大阪のターミナルである梅田からわずか一駅のところにある。周辺には高層マンションが林立するが、今もエアポケットのように、かつての面影を色濃く残す一角がある。間口が三メートルもない木造の長屋と、人がすれ違うのがやっとという狭い路地、そして昼間でもシャッターが下りたままの店ばかりで暗く静まりかえった商店街。かつてここでは在日が肩を寄せ合うように暮らしていた。 差別に苦しみながら懸命に生きていた彼らは柳川組を特別な思いで見ていたという。

 「中津の商店街に、8つ年上の私の姉の同級生だったお兄さんがおったんですが、喧嘩が滅法強くてね。中津の若手のエースでした。背が高くてスラッとして私の憧れやったんです。この人が20歳過ぎの頃かな、柳川組に入れてもらったと聞いて、『すごい』と興奮したもんです。 当時の在日の若者の間では、柳川組はそういう存在。やんちゃしとった者なら誰もがあそこの 若い衆になるのを夢見てました

 許永中氏が柳川を初めて見かけ、在日の少年たちが若い衆になることを夢見た60年頃といえば、柳川組が正式にヤクザとして旗揚げしたばかりである。同胞である柳川らが率いる柳川組が暴力によって大阪の裏社会でのし上がっていく姿に、差別や貧困に喘ぐ在日社会は、あたかも権力に抗して活躍する義賊を見るかのように喝采を送っていた

 「私ら在日は日本において差別されただけでなく、本国からも見捨てられ、挙げ句の果てに利用された苦難の歴史を歩んできたんです。泥田を這うような暮らしをしていた私らを守護神のように守ってくれたのが、柳川さんが持つ暴力でした。あの時代を乗り切るには柳川さんの暴力が必要やったんです。在日の知識人のペンの力だけではどうにも弱かった

 そう語るのは、柳川の元側近で、のちに民団大阪の幹部にもなった人物である。

「中曽根訪韓」との関わり

 「殺しの柳川」と恐れられた男がヤクザを辞めてからの後半生は、これまでほとんど語られてこなかった。その暴力的なイメージゆえに日本人社会だけでなく在日社会からも白眼視されたからである。

 だが、その後半生は前半生以上に波乱に富んでいる。韓国の軍事政権に近づいた柳川は、74年に朴正煕(パク・チョンヒ)大統領の招きで44年ぶりに祖国の土を踏んだ。その時のことを自らこう綴っている。

 「立派に繁栄している祖国の姿に強い感動と感銘を受けた。この祖国の将来を一段と安定したものにするには産業・海運・国防の三分野の強化が必要であろうというのが、私の得た一つの結論であった。そうしてどの根幹をとって見ても、日韓両国は運命共同体たらざるを得ないのであるまいかというのが私の偽らざる感想でもあった」

 そしてこう決意するのである。

 「自分の過去を顧みる時、私自身も在日韓国人であるがゆえに差別・偏見にいくたびとなく苦汁をなめ、そのせいだけではないのだが、いわゆる無茶もして来た。だが今は違う。在日韓国人の一人として、私は日本国に対しても私がすべきことがあれば進んでやろうという気構えである」

 柳川は、軍事政権の屋台骨であった情報機関を日本で支えた。朝鮮半島で南北が対峙していた70年代や80年代、日本の在日社会では南北の情報機関が激しい工作活動を繰り広げていた。74年には朝鮮総連の影響下にあった在日韓国人の若者がソウルで大統領夫人を暗殺する事件を起こしている。柳川はこうした南北の謀略戦の最前線で、韓国の情報工作の一翼を担っていたのである。

 また、空手やテコンドー、ボクシングなどにも深く関わり、日韓の政治家にも幅広い人脈を築いた。83年、中曽根康弘は、戦後初の日本の首相による公式訪韓を果たしたが、その下準備に奔走した一人に、柳川の存在を指摘する人間もいる。

 盧泰愚(ノ・テウ)政権下で行われた88年のソウル五輪は、朴正煕政権以来の経済発展路線がたぐり寄せたハレの場である。開会式に招待された柳川に用意されたのは大統領の三列後ろの貴賓席だったという。

割れる評価

 あまり知られていないが、在日社会の地位向上を支援していたのも、柳川である。柳川が生きていた時代、就職差別や国民金融公庫、住宅金融公庫の融資、国民年金、日本育英会の奨学金なども日本国籍がないために利用できないなどの問題が当時はあった。こうした差別を撤廃しようとする弁護士らの運動を陰になり、日向になり、支援していたという。

 ただし、在日社会において柳川の評価は決して肯定的なものばかりではない。

 「『殺しの柳川』いうイメージが広がって誰がいちばん迷惑したか言うたら、そら、在日ですわ。在日はああいう恐ろしいことをする連中いう偏見を持たれたらたまりません」

 ある民団幹部からはそう言われ、民団大阪の団長経験者には柳川を取材したいと伝えて激怒されたこともあった。かつて大阪の在日社会で読まれた新聞の元経営者からは、こんな指摘も受けた。

 「いくら差別されていたからといって、まっとうに努力を重ねて地位を築いた在日はたくさんいます。在日社会の9割以上は、柳川さんについてノーという評価をするはずです。残りの1割は、トラブルシューターとしての柳川さんに期待する人たちです。あるいは柳川さんの虎の威を借りたい人たち。そういう人たちは、柳川さんのことを渋々肯定し、関わりを持った。在日社会に愛された任侠の親分いう柳川像は虚像です。周囲がその虚像を奉り、柳川さんもその神輿に乗ったに過ぎません」

 暴力によって自己実現をしようとした柳川の生き方を肯定することはできない。ただ、柳川のような人物が登場し、そして彼を必要とする人々がいたのも、まさに戦後の日本と朝鮮半島が歩んだ特異な歴史ゆえである。

 差別に苦しむ在日社会を憂い、いがみ合う日本と韓国の関係を改善しようとした。 しかし、柳川は91年に、志半ばで病に倒れた。享年68。
あの許永中が憧れた武闘派ヤクザ「殺しの柳川」を知っているか

写真:現代ビジネス
「柳川の時代」からの日韓の変化

 柳川が生きたのは、個人と個人の繋がりが国家を動かす時代だったとも言える。植民地支配を巡る日韓の断層はあったが、双方の国民が戦争体験を共有していた。朝鮮半島からの引き揚げ者も多かった。逆に、日本語教育を経た韓国人の政治家も多く、人的交流も豊かだった。前出の中曽根訪韓では、青瓦台の迎賓館で開かれた晩餐会で、中曽根はスピーチを韓国語で始めた。

 「ヨロブン、アンニョン、ハシムニカ(みなさま、こんばんは)」

 中曽根のスピーチは会場を沸かせ、参列者のなかには感激のあまり涙を流す者までいたという。中曽根の隣に座っていた全斗煥は、「中曽根さん、俺、あんたに惚れたよ」と日本語で伝えた。

 いまや隔世の感がある。柳川が地位を向上させようとした在日社会への差別は依然残る。いや、昨今のヘイトスピーチをみる限り、ある側面では悪化しているとさえ言えるだろう。この本の取材を続けた時期は、日韓関係が戦後最悪に陥っていく時期と重なった。

 とりわけ昨年10月に韓国の最高裁にあたる大法院がいわゆる徴用工をめぐる訴訟で、新日本製鉄に対し損害賠償を命じる判決を出してからは、対立は深刻化しており、ついに7月4日から日本政府が半導体材料の輸出規制の強化を発動する事態にまでなっている。

 柳川ならいまの日韓関係になにを思うだろうか。本の執筆を終え、筆をおいたとき、そんな問いが静かに沸き上がった。

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